1950年代の金融公庫住宅 (廣吉作)
1950年代の上棟
隣の家も当社施工
隣の家の前島棟梁
青木工務店として一般木造注文住宅建築請負業を開始
工務店開設時、大和南(1951年)
1960年頃。廣吉と梅太郎と木目田さん
1960年頃。廣吉と梅太郎 青友会旅行にて
2台目オート三輪ハンドル 電話:大和164番(1950年代)
1950年頃。1台目角(つの)ハンドルオート三輪と鶴田棟梁
1950年頃。会長・鎌田・たっちゃん
1950年頃。鎌田・みちお・鶴田・新藤
前島・鎌田
1960年頃。太平住宅の現場
1965年頃。太平住宅の現場
1960年頃。吉野坪岡林業
1960年頃。初荷
1960年頃。作業所
1965年頃。事務所前
青木廣吉誕生 この頃から梅太郎大きな家を請負い始める
昭和20年(1945年)生まれ
1950年頃
小学校1年(1951年)
高校生
1914年(大正3年)廣吉誕生。
初代青木梅太郎。長男勉作。次男廣吉(二代目)。
初代青木梅太郎。長男勉作。次男廣吉(二代目)
1920年頃、200坪の現存する医院
1920年頃、現存する住宅
1920年頃の剛床構造
ケヤキの大黒柱と差し鴨居
1915年頃剛床になっていない
1915年頃剛床になっていない
1935年廣吉大工修業後、兵役に就く。
その為、農業に専念。88歳で亡くなった時、大勢の弟子が弔問に来て棟梁であったことを知る。
廣吉兵役を南方にてマラリアにかかり、昭和15年(1940年)日本に戻る。
その後、大工として東京・神奈川で仕事をし、昭和17年(1942年)職人3人と大和の厚木基地の請負をはじめ、大和に定住。
神奈川県大和市の青木工務店 品質方針は「社会、地域に必要とされる工務店であり続ける為の魅力ある家作り」